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かつて本当に存在した4気筒フェラーリ。

 

 

スーパーカーの代名詞とも言えるイタリアのフェラーリ。

 

アルファロメオのレーシングドライバーであったエンツォ・フェラーリが、自らの夢を掛け設立したレーシング・チームを起源とする自動車メーカーです。

 

彼の12気筒エンジンへの拘りは非常に強く、それ積んでいないクルマには決して『フェラーリ』のエンブレムを付けさせなかった事は有名な逸話として現代でも語られています。

 

 

 

 

そんな彼が何と人生で1度だけ4気筒エンジンを積んだ市販車を製作していたのは、あまり知られてはいません。

 

近年、セールス好調で右肩上がりの同社ですが、実は一度経営危機に直面しています。

その原因を作ったのはエンツォの妻である『ラウラ』です。

 

創業以来、レース活動にのめり込んでいたエンツォ・フェラーリは経営に影響が出るレベルまで資金をつぎ込むようになっていきます。それに対し苛立ちを感じたのかは定かではありませんが、妻のラウラが次第に経営に過度に介入し始めるのでした。

 

これに反発したのが当時の経営幹部8名でした。彼らは弁護士を通じて抗議の手紙を送りましたが、エンツォが激怒。

 

何と、8名全員に会議の場で解雇を言い渡したのでした。これが俗にいう『宮廷の反逆』事件の顛末です。

 

 

この事件が元でフェラーリの経営は急激に傾き始めます。

背に腹は代えられなくなったエンツォは収益構造を劇的に変えるべく4気筒フェラーリの開発に取り組みます。

そこで出来上がったのが『ASA 1000GT』です。

 

当初は『フェラリーナ』と呼ばれ、フェラーリの廉価版として生産・販売する事を検討されましたが、車内の反対に合い頓挫、エンツォの友人である科学系企業『ディ・ノーラ』内に本拠を置いた『ASA』ブランドでの発売となりました。

 

 



 

 

発表時にはエンツォ自らがプレゼンを行い、フェラーリのディーラー網を駆使してセールスを行いましたが、1000ccで4気筒の小型クーペとしては値段が高過ぎた事が災いし苦戦。

後に生産されたスパイダーモデルと合わせても僅か120台という生産で、幕を下ろす事になります。

 

 

この社運を賭けたプロジェクトの失敗で経営が破綻したフェラーリは、フォード社との買収交渉に入りますが纏まるかと思われた交渉は最終段階でエンツォが拒否。

 

現在のフィアット・グループに入る事で何とか危機を回避したのでした。

 

余談ですが、この事を根に持ったヘンリーフォード2世は『フェラーリ』を敵視するようになり、執拗に彼らをレースで破る事に拘りを見せ始めます。また、これには当時彼が不倫をしていた女性がフェラーリのファンだったという点も、その嫉妬に油を注いだと言われています。

 

 

紆余曲折の中フェラーリは現在に至りますが、やはり同社はイタリア・メーカーである事に価値があります。

この時、もし彼らがフォード傘下に入る決断をしていたら・・・・。

確かに今よりはセールスが好調に推移した可能性はありますが、ブランド・イメージは今とは違った物になっていたかもしれません。

 

ただ、やはり『宮廷の反逆』事件は悔やまれますね。

もし、エンツォにもう少しの寛容性があれば、今はもっと濃度の高い『フェラーリ』になっていたかもしれません。

短気は損気、という事でしょうか・・・・。